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2019/01/31*木

五りん父の満州からの手紙を読み解く


「いだてん」第一回で1960年(昭和35年)の夏に志ん生を訪ねて弟子にしてほしいと突然やってきた青年小松(五りん)が先月亡くなった母の遺品と持参した絵葉書。1月6日の放送を観て色々気になってすぐに録画を確認して宛名も文面も一部見えないところも推測可能で解読できていたのですが、その後しばらく家族の病気とか諸々あまりにもそれどころじゃない状態だったのともう少し調べたり訊いたりで確認したいこともあったのでその辺りとその後の放送でわかった情報も付け足しつつここにメモしておきます。

特にくずし字の文面や差出人名が読めないと書いてる方なども見かけたので。


「母が先月死にました」と言う小松、母の遺品を整理していたらこの葉書を見つけたということ。「僕何も知らないんです親父のこと。写真とかも空襲で焼けちゃって。」


表の絵の空の部分には

志ん生の「富久」は絶品

と大きめに裏の文面よりくずさない字体で書かれていて、小松(五りん)が言うには

「父が満州で師匠の落語を聞いて、それを母に送ったんじゃないかと。」
「父が満州で師匠の落語を聞いて」の部分はあくまでも五りんの推測と受け取っておきます。


以下、宛名、差出人名、文面とそこから考えられることについて書きます。第一回の放送で志ん生が裏表見てる時に映ったものではありますが、見える位置の違う静止画像4枚ほどから確認しているので(くずし字の解読そのものも)ネタバレという考え方もあるかもしれないし、ネタバレとは思わなくともそこは知らないままにしたい方もいらっしゃると思うので以下に少し下げて記します。
葉書に書かれたこととそこから推測できること、第4回放送観た分まででわかった五りんの両親に関わるちょっとした情報についてです。(ガイド本のあらすじなどは一切読んでいません。)

ここから続き


宛名
大日本帝國東京都小石川區大塚窪町五二
小松りく殿

差出人名
満州派遣百二六師團
歩兵第二七八連隊
小松勝

一文字の名前であることはわかっても検閲済の印とも重なりなかなか読みにくかった(と思われる)差出人の小松の下の名前。
左が月でつきへん?にくづき?であることはわりとすぐわかり(こういうくずし方になじみが)一文字名前で思いつくものでそれっぽく見えるのは「勝」かな?というかんじで。(「勝」の部首は「力」の方だけど。)
身近な年配者や書道やる人(一応私もではあるのだけどもっと頼りになる人)にも確認して自分で書いてみても「勝」で間違いなしってかんじで、これは確定でいいかと。

「軍事郵便」 「検閲濟」と検閲者の姓(米澤?)の印

以下本文


久方ぶりの便りになるが、元(氣)
であろうか。此方は變わ(らず?)
氣候は今は寒く雨が多(い??)
満州國の大地は廣いよ。東京(や?)
熊本よりも何百倍あるかと
思う、どこを見ても先が見えぬ
てんとう様もはるか大きく遠く
の山にしずみなさる 息にはよく
言い聞かせよ。も五つになるのだから
おっかさんのいひつけをきいて元氣よく
遊ばねばなりませんよ。之からあつく
なりますから、いたまぬ様に朝な
どは例の冷水まさつをやれ惰けてはいかん
毎日忘れずに必ずやれよ、之をやれば
自己の心身を丈夫にするゆえ。

改行はそのままで志ん生の指や画面の下が切れてるのでたぶんこうであろうという部分をカッコで、一部これでいいのかな?なとこもありますが、内容は十分把握できるかんじ。


宛先の東京都小石川區大塚窪町52は現在の文京区大塚3丁目、当時の番地としては東京高等師範学校があった場所(当時の地図で確認およびその辺りの地元民の身内の者にも確認)、当時は東京文理科大学になるのかな。関係施設なども含む大学敷地内に住んでたということかもしれないけど、そのすぐ近くの設定(ただし適当な住所の使用を避けた)の方が可能性は高いのかな?とにかくあのあたりに住んでたということがわかる。


そして父小松勝の所属が第126師団歩兵第278連隊であったということは、連隊の編成が東安省鶏寧県平陽において1945年3月(編成完結3月10日、軍旗拝領3月28日)であることがわかるので手紙が書かれたのはそれ以降ということになる。それと連隊の補充地が熊本であることもわかる。そして連隊の記録を参照するとソ連との国境近くに配備されソ連軍侵攻の矢面に立たされれ後退中にほぼ全滅、そこで生き残れていたとしてもタイシェット、アルチョームなどに収容されたことなどがわかる。
第126師団司令部略歴(5・6ページに歩兵第278連隊略歴) 国立公文書館アジア歴史資料センター
(これ以外の本や記録なども参照していますがここでは簡略に。)
もう20年ほど前になるけれど、そちらの連隊略歴からも五りんの父もその時のお話に多く重なる状況だったと思われる方のお話を直接伺ったことがあったり、テレビや記録から見聞きしたことのあるおそらく近い状況だったのではないかという体験談などから伺えることからも架空の人物であろう五りんの父を思い胸が苦しくなってしまった。


そして所属連隊が書かれ検閲済の印がある軍事郵便ということにより考えられる状況からは満州に短いとはいえ重なる時期にいた同士であっても1945年5月から主に大連で慰問活動をしていた志ん生の落語をその頃既にはるか遠く北に離れた地に行っていた五りんの父勝が聞いている可能性はないようにも思えるのだけど。
『志ん生の「富久」は絶品』は何か他の意味を込めた妻には通じる言葉とかそういうものなのではないかと。出征前に東京で一緒に聞いたとか何かあって。検閲を逃れて何かを伝えようとしたという可能性も。
とはいえ、志ん生の五りんを受け入れる様子から父勝との接点が何かしら憶えがあるくらいにあったようにも思えるし、志ん生が慰問に訪れ終戦後大連から動けなかった満州につながりを持たせているからには何らかの理由で満州で出会ってるとか繋がりがあるんじゃないかと思わせるし、そこらへんも期待しておく。




五りんより少しだけ年上の私の母は幼い五りんとその母りくと(出征前の父勝もあるいは)何度もすれ違ったりどこかで居合わせたりということがあったであろうというような生活圏で暮らしていたことになる。母の父、私の祖父の出征先は南の方だったけれど、その留守中に東京大空襲に遭っていて、祖父が死んで帰って来なかったことも五りんと重なる。
母親譲りの足の速い少女だった母は後に空襲の時に「走って逃げた」話をすることがあった。足の速さで助かったわけではない(もう少し走るのが遅かったら焼け死んでいたとかそういう状況ではなかった)けれどこのあたり思うところ色々あるので追々また何か書けたら。。。
ちなみに母の祖父(私の曽祖父)とその家族が日本初のオリンピックに参加する金栗選手のために募金したという話はなんとなく昔聞いたことがあったり。

母の実家が講道館の近くだったとか家族に東京高等師範学校、東京高等女子師範学校卒業者が複数いたとかそんなことで接点があったことが関係あるのかわからないけれど、母の兄である伯父は嘉納治五郎先生に抱っこばしてもろうたことがあるらしい。母がしてもらったかはわからないけれどやっと走れるようになったぐらいの幼い頃、治五郎先生に足の速さを誉められたことがあるとか。母の母(祖母)もまたその昔治五郎先生に足の速さを誉められたとかそんな話も。と、ここいらの話はまたいずれ。。

■本文をもう少し詳しく検証
さて、手紙の本文に戻り気になる点を検証してみる。

「満州國の大地は廣いよ。東(京や)熊本よりも何百倍あるかと思う、どこを見ても先が見えぬ」

ここではやはり「熊本」が大きいポイントかと。
小松勝は熊本出身か(東京か他の出身で)少年期を熊本で過ごしたとかで、進学か何かで上京し(あるいは東京に戻り)東京でりくと出会い結婚といったところなのかな。(あるいは他の姓だった勝さんが小松りくさんと出会い小松姓になったということも考えられるかも。)
「先」は「光」にも見えたのだけど書いてみると「先」かなと。訊いてみた人も「先」でしょうと言うので「先」にした。
満州国の広い大地は先まで見通せるということのようなのに、「先が見えぬ」となるかな?と思ったけれど「ぬ」は間違いなさそうだし、広々していて先には何も見えないということを言ってるかんじがするかなと。先の見えない状況を含ませてるようにも思えるけどちょっとわからない。

「息にはよく言い聞かせよ。も五つになるのだからおっかさんのいひつけをきいて元氣よく遊ばねばなりませんよ。」

息子のことを「息」一字で言い表すというのがどうなのかと思ったけれど、これは親の代はそういう使い方したと言う80代がいるし他に読めないので。
妻に息子によく言い聞かせよと書き、息子に直接呼びかけるように書いてる言葉が続き、胸がいっぱいになってしまう文面。祖父が遺した手紙にも重なる部分があり色々辛い。

ここで「も五つになるのだから」で五りんの生まれた年が推測できるかんじ。手紙が1945年(昭和20年)春頃のものとすると書いた時点で4歳でもうすぐ5歳になるということに最初は思えたのだけど、数え年だとすると3月以降に書いて「もうすぐ5歳に」という意味にはならないかと。。。「も(う)五つになるのだから」がもう5つ(になってるの)だからも考えられるとして数えで5つで1941年生まれ。1960年志ん生初訪問時に19歳か20歳といったところか。


その頃はやはり親が子の歳を思うのは数えであったのかはそうなのかな?としか。。。五りんよりちょっと年上の東京生まれで主に東京(と後に一時期親戚のいる九州)で幼少から少年期を過ごした父が言うには子供の頃満年齢を使う感覚は父の知る限り東京の真ん中あたりの一部ではあったそうで五りんの生まれる少し前1930年代終わり頃でもお誕生日会なるものをやるうちもかなり珍しいとはいえあったとか。(そのあたりの話が色々面白かったのでまたいずれ)。一般的には数えだったんだろうけど若い人だろうし可能性としては満年齢もあり得るんじゃないか?という意見。
だとするともう少し早く生まれてて1940年生まれとかそのぐらいもあるかも。いずれにしてもおよその年齢はわかったということで。

「之からあつくなりますから、いたまぬ様に朝などは例の冷水まさつをやれ惰けてはいかん 毎日忘れずに必ずやれよ、之をやれば自己の心身を丈夫にするゆえ。」

これはもう冷水浴ではないけれど「冷水まさつ」とあること、突然強い調子になっていることなど注視してしまうけれど、妻に向けてか幼い息子(に将来的に)とにかく伝えたいという思いを感じる部分。
勝さんが熊本出身と考えられるとして五条先生方面から伝わってるという可能性も無きにしもではあるけれど、ストーリー的にそれがどうしたというかんじになるし、ここはやっぱりこの強い思いが伺えるところも金栗四三直々の教えを受けているのではないかなぁと何となく。。。(史実で四三が熊本に帰った時期に少年時代を送ったと考えられる年齢ではないかと思えるし。。。)
もしくは孫弟子的な関係、あるいは四三の弟子の子というような関係もあるかもしれないけれど。


金栗四三の著書「ランニング」の(五)入浴、冷水浴の項(28コマより)に冷水浴を始める年齢や「冷水摩擦」についてのこんな記述が
明石和衛・金栗四三共著「ランニング」(国立国会図書館デジタルコレクション)


「扨て冷水浴をやるにも年齢や體質を考えねばならん。餘り年少の者は無理かも知れん、先ず中等諸學校入學者位から初めては如何と思ふ、又體質の弱き人で冷水浴をやりたい人は、先づ醫者の診察を受けてやる方がよい、冷水浴では過度の人は冷水摩擦でよい。即ち、濕した手拭で全身を十分摩擦する、」


冷水浴の効能を熱く熱く語り全力お薦め!の中でもこういった記述もあり、今はまだ幼い息子ももう少し大きくなったら冷水摩擦から初めてみてはどうか?将来的には冷水浴をやれるようになってほしいくらいなかんじの意味もあったのかも。「例の」と書かれてるぐらいだから母りくさんは父勝さんが冷水浴を習慣にしてて自分にも(冷水摩擦の方でいいから?)やるように言ってた(一緒にやってた?)ことはよくわかっていることというかんじ。手紙の文面では「冷水浴」でなく「冷水まさつ」であることも気にしておく。

■第二回から第四回の追加情報
さて、第二回放送ではちゃっかり(?)志ん生の弟子(?)になって「五りん」という名までもらって家を出入りしてる小松青年は庭でいきなり声を上げながら水浴びをして「すいません、親父の言いつけで、毎朝やらなくちゃいけなくて。」と言っている。
彼が父が母に送った葉書を母亡きあと見つけて読んで自分にやるように言われてるように感じて始めたというのもあるかもしれないけれど(この場合冷水まさつ何それ?というふうにもなりかねないしそこから冷水浴につながるかは??)、あの葉書の文面を将来の息子に言い残したこととも受け取った母を通じての言いつけというかんじなのかなと何となく。。

そして第四回、五りんの母が生前大塚仲町の播磨屋で働いてたという新たな情報が!
五りんと師匠の家で待ち合わせ(なんだそれ?)してるという知恵が
「早く来ないかな、あの野郎」という志ん生に
「お母さんが生前働いてたお店行ってみるって」と。

志ん生「お母さんが働いて...?どこで働いてたんだよ?」
千恵「大塚仲町の播磨屋」
志ん生「大塚の播磨屋?」

そこから場面は変わり時代を遡って金栗四三が初めて播磨屋を訪れた黒坂辛作との出会いの場面へ。
志ん生の口ぶりが大塚の播磨屋を知ってるようなかんじもなくはないけれどちょっとわからない。
*大塚仲町の町名がなくなったのは1966年(昭和41年)なのでこの時(1960年)はまだ実在している。
五りんの母りくさんが播磨屋で働いていたというのがいつからでどのくらいの長さなのかはわからないけれど、これは重要な情報。

こうなると父が播磨屋の主人黒坂辛作の息子、店の手伝いをしていて四三の足のサイズ(十文の並)を計ってくれた勝蔵というのがちらっと出たりもするけど、この先の話に関わると思われるはずでも実在人物だからこれはないな。だいたい「勝」の字がつながっても名前が違うし。
既に出ている登場人物に小松勝はいないし(結婚や養子縁組などで改姓するかもしれない)勝もいないし、あと年齢的に1943年(昭和18年)に徴兵年齢上限が40歳から45歳まで上がった時でも兵隊に行く年齢は過ぎてるし。

母りくもまったくわからないけど、既に出てる誰かにつながるとすれば実在人物はないだろうから、架空の人物の子世代という線が濃いような。小梅は小松と繋がるような名前ではあるし(本名じゃないにしても)、清さん(セイさんという車屋さんはいたらしいけれどほぼ架空の人物として描かれてるようなので)は名字が不明なのでそこらへんに何かあるかもと思えたりして。清さんの息子が父勝とか娘が母りくもありかも。清さんは車夫で走る人でもあるから何かしらありそうだけど。。

りくが陸上の陸からとってとか考えられるので走る人つながり??(陸海空方面もあるかもしれないけど)というのはやっぱり考えるし。

あとは架空の人物なら三島家の女中シマの線がとても気になる。この先四三やオリンピックどう関わっていくのかわからないけれど何かあるかんじがするし。シマ(島)とりく(陸)というのも何かしらつながりそうな気もするからシマの娘が小松勝と結婚し生まれたのが五りん。(可能性としては実はシマは小松シマで結婚した人が小松姓になってその娘か息子が五りんの母か父というのもありか。)いずれにしてもそうなると五りんの顔や表情におばあちゃんの面影あるように見えるし。とか適当な事を言ってみる。
シマちゃんは天狗倶楽部のポーズとか一緒にやってたり、羽田まで応援に来てたぐらいだし弥彦を見て刺激受けていそうだし、ってこのあたりは今後を見ながら色々思いを巡らすのも楽しそう。



それにしてもりくさんは空襲に遭い(おそらく家を焼かれ)夫を戦争で亡くし、幼い五りんを抱えひとりで育て息子の成人を見届けるかどうかという頃に早くに亡くなってしまったということになるのかな。。これも辛いな。。